今日は医者の親友と一日を過ごした。病気で亡くなっていく人の話を聞いた。病気でなくとも身体の機能が老化現象として衰えていく人の話も聞いた。医者という仕事は自分のようなビジネスと少し違って人々が困っている身体の事に対して利益という事をある意味、度外視にして貢献していく。非常の尊い仕事だと感じた。医者の中でも高い職業観を持たずに働く人もいるだろうけど、自分には価値のある仕事だと思えた。
自分が身体が今よりも不自由になった時に自分はどう感じるだろうか。あの時もっとこうしておけば良かった、こんな事がやりたかった、もう人生終盤だな…そんな風には思いたくない。自分はこれをやった、よくやったよな、良い職業人生だったな…家族にも恵まれて幸せだったな。そう思えることが大事だと感じた。
自分は何がやりたいのか。自分は人生に何を求めているのか。自分はどうすれば納得したといえる人生を送れるのか。自分の人生には全て自分に責任がある。自分は考え過ぎだろうか。自分が価値を見出すことに時間を人生を使いたい。
自分は日本に生まれて個人商店の長男として生まれた。アメリカでもヨーロッパでもアフリカでもなく、この時代この地に生まれた。自分がもしアメリカ人の大富豪の家に生まれていたら…アフリカの貧困地域に生まれていたら…自分は今と違う選択をし、送りたい人生も全く違っていたと思う。自分の境遇は自分しか該当しない。自分の人生の使命は何か。なかなか言葉にできない。これはここまで考えなくても生きていけるのも事実だと思う。どこまでいっても自分の納得感の問題なのだ。他人がどう思おうが、どんな評価をしようが関係がない。正直言って他人がどんな人生を送ろうと知ったことではない。ただその人の思う最善の人生を送ってもらえれば、それがいいと思うし、その事には力になりたい。
自分のやりたい事と世の中の求めている事と原理原則が交わる事。アスリートが自分の人生を賭けて勝負をする姿が感動を与えるのと同じように、普通の人が自分の夢や目標に向かっていく姿も人々に感動を与え、生きる力を与えることができる。人生を賭ける必要は無いが、人生の一部を賭ける必要はある。大きな変化を遂げたい。その姿を見てもらいたい。力を与えられる人間になりたい。
求めることが複数ある。これは決して悪いことではない。自分が求めることの良い悪いは自分で判断すればよい。他人の意見なんて1mmも関係が無い。
そんなもんうるせぇで片付けてしまえばよい。自分の成功を他人に批判されてそれを諦めるなんて自分の人生を他人の人生にサービスしているのと同じかもしれない。それが悪いわけではないが、自分は絶対に嫌だ。自分の成功は価値がある事なのだ。体現してみせよう。経済的な成功を関係付けるのは自分には難しい。ついてこれば良い。
またゼロに戻れば良いだけじゃないか。